右でも左でもいいからどっちかに傾いてみるといいことがあるかもしれない
ふだんスマホを使っていて感じるんですが、これだけアプリが溢れていることって実はすごいことなんじゃないかなと。
というのも、それだけアプリを開発する環境が身近になったということでもあり、作っただけの需要が出てくる可能性が広がってきたということでもありますよね。要するに、スマホを取り巻く市場は急速に成長し、どんどん成熟しているわけです。
ただ、これだけ数が溢れてくると、アプリとか何かしらのシステムを使うということの概念自体が変わってきます。例えば、ひと昔前であれば、当たり前のようにお金を払っていたサービスが今ではタダで提供されていたり、提供する方も提供される側も意識が自然と変わって当然ですよね。もっと言えば、「これがダメならこっちでもいいや」みたいな乗り換えが簡単になって、ひとつのものにこだわらなくてもよくなってきているので、提供する側からすれば激しい競争にさらされます(もちろん、提供される側の人たちは選択肢が増えすぎると迷ってしまうというデメリットも多くあります)
では、提供する側の人たちは、どのような発想を持つべきなのでしょうか。
ここからは、あくまでも個人的な考えなんですが、提供するもののスタンスとか立ち位置を右でも左でもいいので、どちらかに偏らせてみることが大切なのではないかと。
この考え方にたどり着いたきっかけは、「極端なところでバランスを取るという戦略 (けんすう日記)」なので、あわせて読んでみてください。
例えば、何かひとつアプリを作ろうとして、ターゲットユーザーをどうするかを考えるときに、「みんなに使ってもらえるものにしよう!」 と考えがちなところを、「このアプリは小さな子どもだけに使ってもらおう!」とかあえて、ターゲットを狭めてみるのも手かもしれませんよね。小さな子どもだけに使ってもらうなら、極限までシンプルに作って、触っただけで操作ができるように作り上げていけばよくなります。 大人が使うような複雑な機能はいらないわけです。
もちろん、 万人受けするものを作ろうと考えることが悪いわけでもなんでもないですし、実際にそういうアプリや仕組みあがあって世の中が成り立ってるので、ありがたいくらいです。
ただ、これだけ豊かになった世の中に対して、強烈な存在感を放つものを作り出すにはそういう考え方も必要なのかなと、自分でいろいろ考えている中で思っただけです。
さらにこうした発想をすると、ものを作るときにイメージが湧きやすくなるというメリットもあると思います。以前、家入一真さんがこういうことを書いていました。
その結果、それが他の人に使ってもらって、同じように喜びを生み出せれば大成功!といった感じです。
まあ、綺麗ごとにも聞こえるかもしれないし、世の中そんなに単純ではないことも分かっていますが、 こういう考え方で生み出されたものが世の中に出て、評価されると嬉しいなと思うのでした。
というのも、それだけアプリを開発する環境が身近になったということでもあり、作っただけの需要が出てくる可能性が広がってきたということでもありますよね。要するに、スマホを取り巻く市場は急速に成長し、どんどん成熟しているわけです。
ただ、これだけ数が溢れてくると、アプリとか何かしらのシステムを使うということの概念自体が変わってきます。例えば、ひと昔前であれば、当たり前のようにお金を払っていたサービスが今ではタダで提供されていたり、提供する方も提供される側も意識が自然と変わって当然ですよね。もっと言えば、「これがダメならこっちでもいいや」みたいな乗り換えが簡単になって、ひとつのものにこだわらなくてもよくなってきているので、提供する側からすれば激しい競争にさらされます(もちろん、提供される側の人たちは選択肢が増えすぎると迷ってしまうというデメリットも多くあります)
では、提供する側の人たちは、どのような発想を持つべきなのでしょうか。
ここからは、あくまでも個人的な考えなんですが、提供するもののスタンスとか立ち位置を右でも左でもいいので、どちらかに偏らせてみることが大切なのではないかと。
この考え方にたどり着いたきっかけは、「極端なところでバランスを取るという戦略 (けんすう日記)」なので、あわせて読んでみてください。
例えば、何かひとつアプリを作ろうとして、ターゲットユーザーをどうするかを考えるときに、「みんなに使ってもらえるものにしよう!」 と考えがちなところを、「このアプリは小さな子どもだけに使ってもらおう!」とかあえて、ターゲットを狭めてみるのも手かもしれませんよね。小さな子どもだけに使ってもらうなら、極限までシンプルに作って、触っただけで操作ができるように作り上げていけばよくなります。 大人が使うような複雑な機能はいらないわけです。
もちろん、 万人受けするものを作ろうと考えることが悪いわけでもなんでもないですし、実際にそういうアプリや仕組みあがあって世の中が成り立ってるので、ありがたいくらいです。
ただ、これだけ豊かになった世の中に対して、強烈な存在感を放つものを作り出すにはそういう考え方も必要なのかなと、自分でいろいろ考えている中で思っただけです。
さらにこうした発想をすると、ものを作るときにイメージが湧きやすくなるというメリットもあると思います。以前、家入一真さんがこういうことを書いていました。
これもまさしくその通りだと思っていて、サービスを作ることの最大の目的は、使ってもらいたかった人に実際に使ってもらって、喜んでもらうことだと思うんですよね。そのためには、自分の身近で一番喜んでもらえそうな人を見つけて、「その人のためだけに作る!」くらいの極端な心持ちのほうがいろいろと実感もしやすいし、イメージもしやすいのではないかなと。サービスやビジネスを作るとき、僕が大事にしているのは、
「身近な人の顔を思い浮かべて、手紙を書くように作る」
ということです。
「身近な誰か」に向けて「手紙を書くように」作るサービスのほうがいい (The First Penguin)
その結果、それが他の人に使ってもらって、同じように喜びを生み出せれば大成功!といった感じです。
まあ、綺麗ごとにも聞こえるかもしれないし、世の中そんなに単純ではないことも分かっていますが、 こういう考え方で生み出されたものが世の中に出て、評価されると嬉しいなと思うのでした。
YOUは何しに日本へ?を見ていて思うこと。
こんな記事を見つけたので。
「YOUは何しに」が他の“ほめられたい日本人”番組とは違う点
僕も「YOUは何しに日本へ?」が好きで、ほとんど毎週みています。もともと、日本で頑張っている外国人の人とかが好きだったので、この番組は僕にとってもドンピシャだったわけですね。
で、この番組を見ていてうれしくなるのは、出演する外国人の方々が、日本を愛しているというのが伝わってくるところ。愛しているというとオーバーな感じもしますが、なんというかみんなそれぞれに日本に関心を持って、知ろうとしてくれているんですよね。
日本のラーメンが好きで日本各地を旅する人がいたり、盆栽を習いに来る人がいたり、佐世保バーガー大好きで歌まで作っちゃう人がいたり、それぞれに表現の方法は違うんですが、日本が好きなんですね。
別に僕は愛国主義者とかいうわけではないですけど、やっぱり日本人としては少なからずうれしいことです。テレビ番組なので、演出とかも入っているんだと思いますが、意外と純粋に外国人の方の思いが伝わってくる感じがこの番組の良さなのかなと思っています。
客観的に日本を眺めるのには面白いと思うので、機会があればぜひ一度見てみてはいかがかなと思ったのでした。
そういえば、最近成田空港を使うことが多いので、今度行ったら取材班がいないか見てみよう。
誰でも発言できる世の中になっているのに、それを阻む必要はあるのか?
ちょっといろいろ思うところがあったので、書いてみます。ツイッターとかだとさすがに書き切れないので。。。
まず、「nanapi 1億2000万赤字に思う事 (thinkchangの日々日誌)」という記事を読んで、けんすうさんが「すごい人しか発言しちゃいけないムードにはしたくない (けんすう日記)」という記事を書かれていたのが発端です。
つまり、この記事は、thinkchangさんが書いた記事を読んで、けんすうさんが書いた記事を読んだ僕がさらに被せる形で書くといった何ともわかりづらい位置づけなわけです。。。
さて、nanapiが約1億2000万円の赤字を計上しているのは、決算公告が嘘でない限り紛れもない事実ですね。たしかに、主力サービスであるHowtoサイト「nanapi」で思うような結果が出ていないのも現実なんだと思います。いくらnanapiが好きな僕でも、それを否定しようなんてことはしません。
この点に関しては、けんすうさんも記事の中で、
強い気持ちで世界を目指そうというところが増えないと、縮小し続けてしまうんじゃないか、というのはその通りですね。それに対して結果が出ていないというのも仰るとおりです、もっとがんばります。がんばります・・・。
と、書かれていましたしね。
さて、問題はここからです。
では、赤字を出したからと言って、その企業やその経営者が発言力を持ってはいけないのか、というとそうではないと思っています。
thinkchangさんの記事には、
さて、問題はここからです。
では、赤字を出したからと言って、その企業やその経営者が発言力を持ってはいけないのか、というとそうではないと思っています。
thinkchangさんの記事には、
そもそも、nanapiを見ていて考えることが小さすぎるし、最初から日本マーケットありき、という印象を受ける。日本マーケットという参入障壁ということを考えているのかもしれないが、そんな人間がベンチャー界隈で発言力を持つべきではない。
と書かれていますが、僕にはけんすうさん始め、nanapiの考えていることが小さすぎるとは思えません。
まず、ベンチャーにしろ、大手の企業にしろ、企業にはモットーというか、何かの想いや目的があって商品やサービスを提供しているというのがほとんどです。それを突き詰めた結果が、収益を生み、企業活動を存続させるだけのパワーになるんだろうと。
で、nanapi(というか、けんすうさんの思いといった方が適切なのかな?)にとってのそれは、けんすうさんが書いていました。
まず、ベンチャーにしろ、大手の企業にしろ、企業にはモットーというか、何かの想いや目的があって商品やサービスを提供しているというのがほとんどです。それを突き詰めた結果が、収益を生み、企業活動を存続させるだけのパワーになるんだろうと。
で、nanapi(というか、けんすうさんの思いといった方が適切なのかな?)にとってのそれは、けんすうさんが書いていました。
そもそも僕がなぜ、インターネットでサービスをやっているのかというと、ネット上でしか情報を得れなかったり、コミュニケーションできない人のためのものを作りたい、というのが大きいのですね。
企業である以上、そして経営者である以上、「赤字を出す」ということが正当化されることってあまりないとは思います。僕自身、経営者になったことはまだないので、あまり偉そうなことは言えないんですが、損するよりは得する方がいいよね、と考えればわかりやすいですね。
ただ、このけんすうさんの "インターネットでサービスをやっている意味" をきちんと解釈すれば、「ちっちゃな日本ローカル前提の赤字社長の言うことは無視しよう!」とか、「成功した人の話だけを聞こう」なんていう発想にはなかなかならないんではないかなと…
反対に、こういう「思い」を持った人、貫こうとしている人こそ、発言力があって然るべきなのではないかと、個人的には思っています。発言力というか、誰かに影響を与える人であるべきという方がいいのかもしれません。
現に、僕自身はけんすうさんが書く記事や話すことを聞いて少なからず影響を受けていますし、nanapiがリリースしているサービスの愛用者でもあります。アンサーとか特に好き。
そもそも論で言えば、「成功」なんてものは、結局人によって基準が違うわけであって、自分では成功したと思っていなくても、周りからすれば成功した人だと認識されていたりするものです。もっとも、何かをして周りにプラスのものをもたらしている人でも、自分では認識していないなんてことは往々にしてあります。
取材や講演でも場合によっては「僕は成功していないんで」と断ったりしているとけんすうさんは書いていますが、やっぱり僕にとっては成功に近い人だという認識なんですね。こういう人になりたいという目標でもあります。あんなに分かりやすく、しかも的確に文章を表現できる人ってなかなかいません。仮に、発言力がなくても、表現力はピカイチです。
なんだか、けんすうさんをとことん褒めるブログみたいになってしまいましたが、、、話を少し戻すと、
thinkchangさんのブログに書かれているように、けんすうさんみたいな人が発言力を持つべきではないとなると、僕なんかもっと発言すべき人間ではなくなってしまいます。
でも、これは今みたいにネットが普及して、SNSが発達した時代からは少しズレた考え方だと思うんですよね。そもそもツイッターとか、こういったブログみたいな類は、自分が発言するというアクションが前提のサービスです。そんなサービスで限られた人、しかも世の中的に成功したと言われる人だけが発言したところで、サービスとしてはいずれ破たんしてしまうと思います。全部一方通行にしかなりません。誰かが発言したことに対して、また誰かが返答したり、発言したりするからこそ魅力があるわけで。
それに、けんすうさんの記事にもあるように「昨日の生徒が今日の教師」というのも全くその通りで、人によりけりだとは思いますが、自分に近い目標とかを見つける方が進むのが早かったりすることもあります。いきなり、「キムタクのようなイケメンになりなさい」と言われるより、「街を歩いているようなちょいイケメンになりなさい」と言われるほうが現実味が増すというか。
というわけで、少なくとも僕みたいな人間にとっては、ちょっとすごい人とか、自分が魅力を感じている人がどんどん発言してくれる方が明らかにありがたい世の中になると思うんですね。そして、それについて考えることで、自分にとっても社会へ何かを発信するきっかけになるわけです。
その芽を摘むのはどうなのかなぁ、と思ったので、ブログにしたためてみました。
ただ、このけんすうさんの "インターネットでサービスをやっている意味" をきちんと解釈すれば、「ちっちゃな日本ローカル前提の赤字社長の言うことは無視しよう!」とか、「成功した人の話だけを聞こう」なんていう発想にはなかなかならないんではないかなと…
反対に、こういう「思い」を持った人、貫こうとしている人こそ、発言力があって然るべきなのではないかと、個人的には思っています。発言力というか、誰かに影響を与える人であるべきという方がいいのかもしれません。
現に、僕自身はけんすうさんが書く記事や話すことを聞いて少なからず影響を受けていますし、nanapiがリリースしているサービスの愛用者でもあります。アンサーとか特に好き。
そもそも論で言えば、「成功」なんてものは、結局人によって基準が違うわけであって、自分では成功したと思っていなくても、周りからすれば成功した人だと認識されていたりするものです。もっとも、何かをして周りにプラスのものをもたらしている人でも、自分では認識していないなんてことは往々にしてあります。
取材や講演でも場合によっては「僕は成功していないんで」と断ったりしているとけんすうさんは書いていますが、やっぱり僕にとっては成功に近い人だという認識なんですね。こういう人になりたいという目標でもあります。あんなに分かりやすく、しかも的確に文章を表現できる人ってなかなかいません。仮に、発言力がなくても、表現力はピカイチです。
なんだか、けんすうさんをとことん褒めるブログみたいになってしまいましたが、、、話を少し戻すと、
thinkchangさんのブログに書かれているように、けんすうさんみたいな人が発言力を持つべきではないとなると、僕なんかもっと発言すべき人間ではなくなってしまいます。
でも、これは今みたいにネットが普及して、SNSが発達した時代からは少しズレた考え方だと思うんですよね。そもそもツイッターとか、こういったブログみたいな類は、自分が発言するというアクションが前提のサービスです。そんなサービスで限られた人、しかも世の中的に成功したと言われる人だけが発言したところで、サービスとしてはいずれ破たんしてしまうと思います。全部一方通行にしかなりません。誰かが発言したことに対して、また誰かが返答したり、発言したりするからこそ魅力があるわけで。
それに、けんすうさんの記事にもあるように「昨日の生徒が今日の教師」というのも全くその通りで、人によりけりだとは思いますが、自分に近い目標とかを見つける方が進むのが早かったりすることもあります。いきなり、「キムタクのようなイケメンになりなさい」と言われるより、「街を歩いているようなちょいイケメンになりなさい」と言われるほうが現実味が増すというか。
というわけで、少なくとも僕みたいな人間にとっては、ちょっとすごい人とか、自分が魅力を感じている人がどんどん発言してくれる方が明らかにありがたい世の中になると思うんですね。そして、それについて考えることで、自分にとっても社会へ何かを発信するきっかけになるわけです。
その芽を摘むのはどうなのかなぁ、と思ったので、ブログにしたためてみました。
特別だったものが、特別ではなくなっていた話
先日、親戚の家に行くときに何か手土産でも持って行こうかなと考えた時のこと。
特に深い理由はないのですが、なんとなくドーナツを持っていくことを思いつきました。もしかしたら、その時の自分が食べたかっただけかもしれませんが(笑)
そこで、ドーナツと言えばミスド!ということで買いに行こうと思ったんですが、「待てよ?今はセブンイレブンでも売ってるよな」と思い出したわけです。
この時に、ふと昔のことを思い出しました。
僕が幼稚園とか小学生の頃って、ドーナツと言えばちょっとしたご褒美というか、日常の生活からはちょっとだけプレミア感がある存在だったんですよね。
例えば、父親が仕事帰りにお土産で買って帰って来ると、妙に嬉しかったり。
でも、そんなドーナツが今ではコンビニで買いたいときに買える。もちろん、自分が成長して金銭感覚とかが変わっているのも少なからずあると思いますが、すごく日常に近い存在になってるなと思ったんですね。
そういう意味で、コンビニは私たちの生活の概念を変えていますよね。
そう考えると、気付かないうちに当たり前の存在になっているものって結構ある気がしています。
僕の場合、自分専用の携帯電話を持ったのは中学校を卒業するタイミングだったんですが、今では当然のように使っているし、周りを見ても小さい子でも当たり前のように持っていたり。
人間の欲求というのは、一つ満たされると、さらに高度な欲求へ段階を登っていくものだとよく言いますが、こうして新しいものをどんどん知り、次のものがプレミア感を纏って見えてくるのかもしれません。
特別だったものが、特別ではなくなる。当たり前でなかったものが、当たり前になる。
でも、気付かないうちにそうなっていたことに気付いた瞬間に、ふと切ない気持ちになることもあるというお話でした。